最高裁判所第三小法廷 昭和48年(行ツ)3号 判決 1978年8月29日
上告人 板橋順
被上告人 玉川税務署長
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人坂上寿夫、同尾崎昭夫、同小野直温の上告理由について
上告人が日本フイルハーモニー交響楽団から得た所論の収入を給与所得とした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。また、所論違憲の主張は、上告人が右収入を得るために旧所得税法(昭和二二年法律第二七号。但し、昭和三九年法律第二〇号による改正前のもの)九条一項五号に定める給与所得控除額を超える必要経費を支出したことを前提として、同条の違憲をいうものであるが、原判決の確定するところによれば、上告人が昭和三七年中にバイオリン一台を一五万円、バイオリンの弓を六万円で購入したことは認められるが、右バイオリン及びその弓は償却期間の関係上代金の全額を同年中の経費とみることはできないし、ほかに必要経費をどれだけ支出したかについてはこれを具体的に確認し得る証拠がないというのであるから、所論は前提を欠き失当であつて、原審の判断は、結局、正当である。論旨は、すべて採用することができない。
よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判官 服部高顯 天野武一 江里口清雄 高辻正己 環昌一)
上告理由
原判決は、
「およそ所得税法が給与所得について定額の控除制を採用したのは、当該所得をうるための必要経費と消費支出的経費との区別が判然とせず多数の職種の存する給与所得者らについて、その実態の把握は技術的にも困難であるから、必要経費の概算的意味においてやむを得ず採られているものと思考されるが、右定額以上にいわゆる職業費を要する職種であつて、それが消費的支出と判然と区別できるものについては、資料を提出させ、申告に基いてその控除を認めることは徴税技術の上からみて、さして困難であるとも思われず、現にそのような制度を採用している国も存することは、一般に知られているところである。したがつて高度の学術や技術を要し、日夜これが研鑚に努めなければその給与所得の維持、増額が期待できないために、右定額以上の経費を要する職種にあつては、その必要経費の負担を問題にする必要がないほどに給与自体が高められない限り、税法の問題としては右の如き制度を採用するか、または、控除額を増加するかのいずれかの方法を講ずることが、税負担公平の見地からみて、望ましいことであるとは、いいうるであろう(中略)。その意味において、自ら定額以上の職業費的経費を負担しつつ交響楽団の構成員としてそこから給与を受ける音楽家について右のような方策が講ぜられないことはこの種の楽団員に対する税制上の保護対策が職業野球選手や僕優等に比して劣つていると評されても必ずしも過言とまではいうことはできないであろう。
しかし、この点についても原判示の如く事は結局立法政策上の問題に帰着するのであつて、旧所得税法(現行法においても右の点についてはかわるところはない)の解釈としては、やむをえないところというべきであるから、本件処分を違法と断ずることはできない。」
と判示している。しかしながら、事は立法政策上の問題に帰着するのであつて、やむをえないことであると片付けてよい性質のものではない。
そもそも、課税の対象となる所得とは、所定期間内の一定の原因に基く総収入金額からその収入を得るために支出した金額(必要経費)を控除したものでなければならないから、所得の計算に際つては総収入金額の正確な把握だけでなく、必要経費の正確な把握も必須の要件である。このことは、各種所得についての所得税法の規定(旧所得税法第九条)からも裏付けられているのである。ひとり給与所得についてのみ必要経費控除に代えて定額控除制が採用されているのであるが、それは原判決も指摘するような理由で、必要経費の概算的控除の意味においてやむを得ず採られているのであつて、決して所得イコール総収入マイナス必要経費の概念を変えたものではなく、また変えるべきものではない。給与所得者に対する概算経費控除ともいうべき定額控除が、かりに給与所得者の必要経費以下に定められているときは、給与所得者にとつては、実際の所得額より、必要経費を定額控除でカバーできない分だけ多い額を所得額として課税されるわけで、左様なことは税の公平負担の原則に反する。従つて、給与所得に対する定額控除は給与所得者の必要経費と過不足ない場合にはじめて是認されるのである。
もつとも、右の場合事柄の性質上給与所得者を定型的に考察することは、一般論としてはやむを得ないところであるし、通常の給与所得者を対象とした場合所得税法所定の定額は一応この要件に適合しているといつてよいであろう。しかしながら「自ら定額以上の職業費的経費を負担しつつ交響楽団の構成員として」と判示される上告人の如き者については、かりにその収入を得る形態が給与所得と類似していたとしても、これを給与所得であると認定して所謂給与所得控除としての定額控除のみを認め、それを超える分についての職業費的経費の控除を認めないのでは、原判決摘示のように職業野球選手らについて(事業所得の扱いをして)必要経費を控除する途を開いているのに比して差別のある扱いである。のみならず、観点を変えれば、それはとりも直さず、総収入から必要経費を控除した実際の所得以上の所得があるものとして課税する結果となるものである。
上告人らはかかる不都合な結果を来たすのは、原処分が上告人に対する課税において、所得税法の解釈適用を誤まり、事業所得であるものを給与所得と誤認して課税したためであると主張するものである。次に、原判決(引用の第一審判決を含む)の謂うように、所得の種類は、所得の発生態様ないし性質で決まるのが所得税法(旧所得税法第九条)の法意であるとし、本件所得はその発生態様からみて給与所得であるから本件処分に違法な点はないとするならば、右のような処分を導く基礎となつた旧所得税法第九条そのものが、定額以上の職業費的経費を負担しつつ謂う所の給与所得を得ている者をして、納税義務を果たす上において不当に不利益な取扱いを受けしむることを内包するものであり、その限りにおいて、同条は、すべての国民は法の下に平等であつて社会的身分等によつて差別されないことを規定した憲法第十四条に違背して経済的差別を行なうものであるから憲法違反たるを免れず、かかる憲法違反の法条に従つて上告人に課税した原処分はもとより違憲の処分として取消しを免れないものである。
よつて、原判決を破棄し、原処分を取消されるよう求める次第である。
以上